現在、プロ野球にはセリーグ、パリーグともに6球団ずつの計12球団があります。その中で広島カープは唯一、親会社を持たない独立した企業という大きな特色があります。

第二次世界大戦も終わりに近い1945年8月6日午前8時15分、広島市内に世界で初めての原子爆弾が投下され、多数の人々の尊い命が失われ、また今なお、そのときの怪我や病気に悩まされている方々も大勢いらっしゃいます。それから5年後の1950年、広島に誕生したのが広島カープだったのです。

しかし、その球団の船出はけして順風満帆なものではなく、球団消滅の危機の再三にわたってありました。広島市民にとっては戦後の希望の星でもあった広島カープであり、その期待度は非常に高いものでしたが、時には給与を支払うことができなかったり、遠征の費用をギリギリまで支払えなかったり…とにかくお金がないチームでした。選手をかき集め、プロテストも行い、やっとチームを組んでも、なかなか勝つことが出来ず、暗闇の時期。それでも広島市民はカープを支え、時には経営に苦しむチームの存続のために、「たる募金」と呼ばれる市民からの募金で、球団そのものが救われたときもあったのです。

そこに広島カープが「市民球団」と呼ばれる所以があります。球団創設後、長く低迷した時期もありましたが、1975年に悲願の初優勝を果たしました。ここから広島カープは1991年までの間に6度の優勝、3度の日本一に輝きました。まさに黄金時代となりました。球団創設の、風が吹けば、あっという間につぶれてしまいそうな弱小球団が、セリーグを何度も制覇する強豪チームへの成長を遂げたのです。

しかし、資金力に関しては、他球団に比べて厳しいのは変わりがありませんでした。もちろん、給与の滞納や遠征費用の不足などはなく、広島カープとしての経営は軌道に乗っていましたが、現在でもFAの権利を行使した選手の獲得は一度もなく、目立った戦力の補強もなかなかできないのは事実です。しかし、それでもめげることなく、身の丈に合った経営をするしかなく、それが広島カープの大きな特色である「育成」によって、戦力をアップしていくという方針となったのです。

ところが、球団創設のときから脈々と受け継がれてきた、金の卵を一流選手に育て上げると言う方針…これが今では「カープ女子」にとっては大きな魅力ともなっています。入団したときから目をつけていた選手が、地道な練習によって、ついには1軍の舞台に立つようになる…そんなプロ野球の成長過程を身近な距離で見ることができます。1人のお気に入りの選手を見つけて、ひたすらに応援できる…このように1からプロの世界で自分なりに経験や練習を積み重ねて一流へと育っていく姿を追っていくことができるというのは、カープならではの魅力です。

そしてその魅力は、何も今に始まったことではなく、球団が創設されたときからの伝統でもあります。その伝統が今、まさに「カープ女子」のハートをキャッチしました。そこに母性本能をくすぐられるところもあるのでしょう。そしてそんなチームが強いチームを倒す…ここにもカープの醍醐味が凝縮されています。そう、長い歴史とともに培ってきた広島カープの伝統が、今の人気の礎となっているのです。