親会社を持たないプロ野球唯一の球団である広島カープは、独立企業であるがために、自分たちが生き延びるためには自分たちで何とかしていかなければならないという立場にあります。しかし、広島市民にとっては戦後の復興のシンボルのような存在であり、広島市民はカープを活力にしてきたという歴史もあります。確かに資金力は乏しいとされる広島カープですが、それゆえに選手を一流選手になるまで鍛え上げていく姿勢は今も昔も変わりがありません。

したがって、練習量はプロ野球界でも屈指とされていました。しかも資金力のある球団に比べても、練習設備なども劣る面も多々ありました。それでも地道なトレーニングや練習を重ねることで、他球団の選手には負けないような気迫、不屈の精神を宿した選手も数多く輩出してきました。

広島カープは1975年に球団創設以来初めてのセリーグ優勝を飾り、1979年に初の日本一、さらに翌1980年には2年連続日本一と、まさに黄金時代を築き上げましたが、その当時の広島カープを代表する選手に衣笠祥雄選手がいました。衣笠選手がつけていた背番号「3」は、広島カープの永久欠番として、今の球団の歴史に名を残している選手です。そもそも、広島カープに入団した当初の背番号は「28」でした。その当時の1970年から、引退する1987年まで、時に骨折しながらも打席に立ち続けた不屈の精神で、2215試合連続試合出場の記録を成し遂げ、プロ入り当初の背番号「28」から、「鉄人28号」を連想させることで、「鉄人」という愛称がつけられました。

津田恒実投手は1981年のドラフト1位で広島カープに入団しました。指先の血行障害に苦しむ中で、手術を経て復活を果たし、広島カープの守護神として、最終回のリードを守りきる役割を担いました。普段は気が小さい性格だったようですが、マウンドに立つと、気迫の前面に押し出す投球で、直球だけでどんどん三振を奪い、激しいガッツポーズを決めるところから「炎のストッパー」という異名をとりました。脳腫瘍で32歳という若さでこの世を去りましたが、広島カープらしい、気迫をみなぎらせた投球は今なお語り継がれる存在です。

そして、黒田博樹投手。1997年に広島カープにドラフト2位で入団し、徐々に広島カープのエースとして君臨するようになりました。2007年に大リーグに挑戦し、先発投手として2012年にはニューヨーク・ヤンキースで16勝をマークしました。しかし、いつかは広島に戻ってプレーしたい…高額年俸での契約の話もありながら、あえてそれよりも破格に安い広島カープを選んで、8年ぶりにカープに復帰した黒田投手。その「男気」は一世を風靡するキーワードとなりました。

常に相手に向かっていく姿勢を崩さない選手…先ほど取り上げた3人の選手は数多くいるそんな選手たちの中のごく一部にしか過ぎません。厳しい練習に支えられ、それが成果として、プロ野球を代表する選手へと上り詰めていきました。

資金力のある球団は練習設備、戦力の補強などなど、あらゆる面で恵まれています。しかし、広島カープにはそのような財力がない分、厳しい練習でカバーしてきました。苦しい思いをしてはい上がってきたために、資金で補強してきた強いチームには負けたくない…そんな反骨心が強いのです。強いチームに地道にはい上がってきたチームが勝つ…それがファンの心を熱くし、女性からも支持され、カープ女子を生んだのでしょう。